4階建ての2階部分

上の子:2013年生まれ 下の子:2015年生まれ

父の話 3

12月26日(日)

死にゆくというのはどういう気持ちなんだろう。

あと1年くらいで死にますよ、と言われるのは、中身としては死刑宣告に等しい。死刑だって確定してから執行されるまでに長く空くことが珍しくない。

やりたかったことがやれなくなって辛いだろうな、と思うが、何歳まで生きたってやれないものはやれないし、それが66だろうが99だろうが夢の半ばには変わりないだろう。

むしろ事前に予告されるだけありがたい可能性すらある。

という理屈っぽい話と、純粋に「死にたくない」の気持ちとのせめぎ合いなんだろうな。

例えば幸運が訪れ父が快癒したとして、この時期のことを振り返ってなんと言うだろうか。ただの混乱ではないか。

父は昔から状況を受け入れる力は強く、転勤にも単身赴任にも馬鹿みたいに金のかかる私立の中高にも娘のカミングアウトにもへこたれず、ただ酒を飲んだりして生きていた。もしかしたら裏では文句の一つ二つも同僚に垂らしていたのかもしれない(その可能性は非常に高い)が、それでも家では飄々と憎めない顔をして生きてきた。

だが父がいかに飄々としていようとも自らの早すぎる死刑宣告もやり過ごせるとは思えないのだ。

朝。時間をかけて目覚め、妻がベーグルを焼いていたので春菊とレタスのサラダを作った。ベーグルにローストチキンと共に挟んでチキンベーグルサンドとする。

子供達は朝からたまごっちをいじくり回しており、時間を守れないならお母さんが預かりますよ、というたまごっちに触れたキッズがもれなく頂戴しているだろうお小言ミッションをクリアしていく。

プリキュアをみんなで見て、私は再び仕事というていで家を出る。

再び駅から30分以上歩いて実家に到着する。弟と彼の犬がいる。ゴールデンレトリーバーとボーダーコリーの血が混ざった彼の犬も父と同じく悪性の腫瘍を抱えており、年内がヤマだと言われているらしいがそこそこ元気な様子で擦り寄ってきてくれた。

同じく父も元気だった。

母は素麺を茹でてラーメンスープに盛り、チャーシュー、ネギ、味玉を乗せて供してくれた。私が家で食べる量の2/3にも満たない程度である。しかし十分に満たされた。

いざ集まってみても特にやることはない。駅伝をテレビで眺め、終活の準備の進捗を聞く。昨日は1枚だったエクセルのタスクリストが4枚に増えていた。

私も使わないクレジットカードの断捨離をせねば。

そしてそういう口座や登録情報のを管理しておいて、死亡したら手続きを一括で代行してくれるサービス、めちゃくちゃニーズあるだろうな。

人は死ぬからな。

人生100年時代、という言葉が度々CMから流れ、しかしそれはマクロでしかなくて、ミクロでは早く死ぬ人も十分たくさんいることを我々は嫌と言うほど知っている。アイスを食べ、誰かの台湾土産のビスケットを食べた。

弟の引っ越し先を見にいくことにした。父も母もまだ行ってないらしい。どうせ暇だろう、と私からけしかけ、ステージ4の膵臓を持つ人間が運転する車で向かう。

25分ほど流して、ついた。横浜の真ん中の住宅街のテラスハウスだ。大きな庭がついている。犬もOKだそうだ。

4人でずかずか上がり込み、やれキッチンが使いやすそうだの、やれインターフォンが新しいだの、日当たりが良いのはこっちの部屋だの、クローゼットにバーが2本あるだの暮らしやすさを誉めそやした。

こうやって何もかも忘れて軽い話をしている時間が一番なんだ。もちろん初めて親元を離れる弟の住処を知っておくことは安心につながるはずだが。

帰ってくると父が「こうやって4人でドライブするのもなぁ」と言った。

久しぶり、なのかもしれないし、最期かもね、なのかもしれない。

これが家族の最小単位なんだ。私が家を出てもうすぐ13年経つが、その前22年間はこの4人で暮らしていた。父の単身赴任中以外は、ずっと、ずっと4人で暮らしていた。ドライブをして、弟の新居を誉めそやしていたいた2時間足らずの間だけ、私たちはその頃に戻った。

家に帰ってきて、特になにをするでもなく、帰ることにする。父が送ってくれようとしたが一応静止し、弟に送ってきてもらった。

従兄弟と連絡取ってる? と聞かれる。全然取ってない。把握しておいた方がいいね。そうだね。今回の件は本人から行くかもしれないけど、今後はね。

こうして僕らきょうだいは歳をとっていく。大人同士の話をする。

家に帰ってくると子供らがダラダラと本を読み、妻が夕飯のオムライスを作ってくれた。上の子は風呂で「昨日は本当に世界で一番いい日だった」と述懐している。

いつか私たちも4人に「戻る」日が来るだろう。できればなにも気にすることなく、死の影をあしらいながらではなく、戻ってきたいものだ。