12月22日(木)
普通に生きていれば、父の葬儀というのは人生に1回だけあるイベントだ。良く晴れた日である。
なんのご縁もない納骨堂に、連絡をとってからわずか1週間。二親等までしか来ない身内だけの会とはいえ、どうにか仕上がってよかった。
喪服に着替え、家を出る。喪服と結婚式で、違うのはシャツとネクタイだけだ。まあそれでも良いよな。なんでもよいよな。気持ちだから。あと、夜に飲み会があるので、それ用の着替えをリュックに入れていく。シャツはそのままで、デニムパンツとセーターを入れていく。
1時間前に会場に入り、喪主としてお坊さんにご挨拶した。故人はこんな人で、定年後は近くで介護施設のドライバーとして働いていました。そうですね、乗せていた人の大半より先に逝きました。
戒名を授けていただいた。戒名なるものに感慨を感じたことは今までの人生一度もなかったが、初めてありがたいと思い、「ありがたい名前をありがとうございます」と言っていた。見ず知らずのお坊さんが父の為に名前をつけていただける、その事実がありがたい。良き人生を送ってきたな、すべては君の人徳のたまものよ、父よ。
打ち合わせが終わりお布施を授け、しばらくすると葬儀屋さんが来て言った。
「……お布施の金額が違ってたみたいですよ」
あわてて回収してきてもらい、追加してお納めした。ありがたいやら、はずかしいやらだ。
葬儀、初七日法要、焼香、子供の焼香(葬式で唯一の微笑みポイントだ)、そして出棺。
ひとつだけ後悔があって、父の棺が閉まる前に、肩をもんでやればよかった。秋口に訪れたとき、父をマッサージしてやったんだった。この上なくありがたがっていた、とあとで母から聞いた。それから寝ることが多くなりマッサージすることができなかったのがずっと心残りで、最後に揉んでやればよかった。私がそっちに行ったあとは好きなだけ揉んでやるからな。
マッサージ、立ち仕事の妻の肩や腰を押したり揉んだりするうちに、うまくなってきた気がする。定年後、お年寄りをマッサージする仕事があれば、それはそれでよいかもしれない。
霊柩車と一緒に乗り、火葬場へ。大きな火葬場で、ずらっと並んだ炉に、次から次に家族があつまっている。手際よく最後の別れをつげ、手を振って炉へ。
1時間の待ちがあって、子供らはようやく何かから解き放たれたように、休憩場所にあったお菓子を貪った。
1時間弱で火葬は終わり、骨をひろって壺に移す。喪主の私が骨壺を持つ。まだ断然、温かい。マイクロバスの膝の上で感じる、父の最後の温かさだ。
納骨堂の控室で精進落とし。10人ほどの場だったので喪主の挨拶もごく簡単にすます。冷えた料理が多かったが、おいしかった。おいしかったと母が何度も振り返っていたのが印象的である。
弟の運転する車で実家へ。炊飯器が稼働しており、ちょうど米が炊きあがった。骨壺を予めセットされた祭壇に据え置き、炊きあがった白飯を備える。父は一気に死者になった。コーヒーを飲み、着替え、再び家を出る。
飲み会までだいぶ時間があるが、体力的にかなり疲れたので、横須賀線の中で調べて、飲み会会場から最も近い銭湯へ向かう。疲れたときには風呂に限る。
露天風呂はなかったが屋外に近い風呂があり、そこに入っていると、頭頂部まで禿げ上がり後頭部が比較的長いおじさんが入ってきた。風呂から湧き上がる湯気と差し込むスポットライトのような逆光に、おじさんのシルエットはスモークの向こう側にたたずむロックスターのように浮かび上がった。
父の葬儀だったんだぞ。
風呂に入ってしゃっきりして、飲み会をゆっくり楽しんだ。焼肉だったが結構おなかがいっぱいで、無理して食べた。2年間のお勤めのお礼として、ヘリノックスの椅子をもらった。これ、妻が欲しいと言ってたやつだ! なんでわかったんだろう。