4階建ての2階部分

上の子:2013年生まれ 下の子:2015年生まれ

何のためでもない行為の受け皿として「念」という概念

5月23日(月)

子供たちにとっての「宿題の終わり」とは何か?

それは「最後の問題の最後の字を書き終わった瞬間」である。

「最後の字を書き終わった瞬間」が終わりなので、例えばその瞬間に手に握っている鉛筆を筆箱に戻すとか、ノートをたたむとか、そういったことは宿題の範疇ではない。それは家族から強いられる労働である。

なので「宿題終わったよー」という声に応じてリビングを覗くと、鉛筆はその辺に転がり、消しゴムのカスは散らばったままテレビを見ていたりする。

あっぱれだ。

「本質的に必要な部分が終わったあとの活動まで含めて作業」というのは難しい概念なんだろう。

あと子供にとっての「おやつ」は、おやつを食べ終わるところまでがおやつであって、その包み紙を捨てることは「おやつ」ではない。

なのでおやつの包み紙は毎日丁寧に2人分(それがアイスの袋であったとしても)テーブルや床に散らばっている。

潔さに見るべき点はあるが、それはダメではないか。

朝食にレーズンパンを食べたあと、走ることにした。厚労省がいろいろがんばったおかげで、走るときにマスクをする必要がなくなった。

念のためランニング用のマスクを首からさげて走り出す。何のためなんだろう、それこそ「念のため」なんだろうな。

何のためでもない行為の受け皿として「念」という概念がある。

少しの距離だったが気持ちよい。今週が梅雨前最後の晴れ間だろう。

昼食には私が個人的に「半年ラーメン」と呼んでいる博多ラーメン屋に行った。あまり好みではない味だが、半年に1回くらい行って、好みの味になっているかを確認している店だ。

半年に1回だがリモートワークも2年を超え、たぶん5回目くらいだろうか。味は変わっていない、とんこつの臭みが強い。本格っぽいといえばそうだが、洗練はされていない。

しかし5回通う間に、だんだん慣れてきて、下手したらおいしいとすら思えるようになってきてしまった。すごく、悔しい。

「ラーメン屋開業支援します」の文言すらも何かの勝利宣言のようで悔しく思える。

夕食はラムとジャガイモのトマトシチューだが、なんだか様子がおかしい。というか、量が足りないな?

なんの計算を間違ったのかおかずの量が足りなくて、とはいえ別のおかずをつくるのもだるく、まあ食べ過ぎるより良いかという理屈で家族全員で少な目の夕食を食べた。