4階建ての2階部分

上の子:2013年生まれ 下の子:2015年生まれ

もしかして私は、寒い中を歩くのがとても好きなのかもしれない。

12月29日(金)

前日3時過ぎまで遊んでいて、翌日11時から外出だったので寝る時間がぐちゃぐちゃだ。

とりあえず8時くらいに起きて朝食。モンゴルミルクティー、チーズの仲間のようなものを食べた。あとはなぜかラクサがあったので辛いやつを食べて二日酔いをふっとばす。

散歩に出た。外気温は-10℃ほど。現地の方に言わせると春のような陽気だそうだ。しっかりと着こんでいれば確かにさほど寒くない。モンゴルの寒い寒くないは、氷点下に耐えられるようにしっかり着込んでいる前提での判断だ。コンビニでティッシュのようなものを買う。ティッシュというよりはファミレスの机に置いてある紙みたいなやつだった。こういう細かい文化の違いにも感動する。

昼前になって二日酔いが集結した。メンバーの女性二人組がシーベリージュースを買ってきてくれたので飲む。砂糖が入っているので飲みやすいが、砂糖がないとかなり酸っぱいらしい。車に乗って南東方面を目指す。

彼女らの一人が来ている服には、モンゴルの伝統的な文様がロゴとして記されているのだそう。見せてくれた。3種類くらいあった。

車の中でモンゴルのメンバーといろいろな話をした。ところどころに置いてある布がかかった木組みの三角錐は宗教的な何かだ。モンゴルの宗教は仏教と現地アニミズムのミクスチャーなのだという。空に祈るらしい。祈る対象が空か地面しかないよな、という無粋なツッコミは置いておいて、しかしその分、空に対する畏敬の念というのは我々日本人よりも強いのだろうな。

スキー場はあるらしいが高いとのこと。日本だとスキー場に温泉がくっついてるからエンタメとしての完成度が高いのよな。

みんなインスタをやっていて、友達申請した。私は39歳という話をした。

1時間ちょい走って、チンギスハーン像が見えてきた。見えてきた、なんてもんじゃない、あまりにもデカすぎる。牛久大仏ではないか。いや、牛久大仏は全長120メートル、チンギスハーン像は40mなのでそこまででもない。しかし大仏と違ってなんだか攻撃的な存在感がある。

像の手前で、ラクダに乗ったり鷹を手に乗せたりさせているおじさんがいて、私もラクダに乗った。ラクダの背中は鋭利な三角形で、そこにまたがって歩くので股が非常に痛い。痛かったよね、と同行者と話したら、いや、そこまででもないよね、と言われて運動神経のなさを恥じた。

が、よく見ると私が乗ったラクダにだけ鐙がなかった。なんだよそのハズレラクダ。

像の足許は記念館のようになっていて、いろいろな古い道具やアクセサリーが展示されていた。とにかくモンゴルの歴史と食文化について勉強してきてよかった。

像の上までエレベーターで昇れるようになっている。そして馬の頭上に出ることができた。粉雪が降っており地平線と空の境がぼんやり溶けて、世界はどこまでもどこまでも白い。

どこまでも白いだけの大地でも人々は生きてきたのだ。何千年にもわたって。

すっかり遅くなってしまったが昼食を近くのレストランでおなか一杯食べる。モンゴルの食や文化を教えてくれた。

モンゴルでは正月が2月の新月の日らしく、その日が冬の最後の日なのだそうだ。そしてその翌日が春の最初の日。なので毎年正月が異なるのだそう。

正月には、餃子のようなものをたべるのだそうだ。あとは「ロシアンサラダ」。じゃがいもと肉、野菜を角切りにしてマヨネーズであえたサラダ。これらを正月にたくさん食べるのだそう。

馬乳酒は夏の味覚だが、秋の馬乳酒が一番おいしいのだそう。この時期は基本的には無いらしい。うーん残念。飲みたかったな。

もう夕方近いが、そこから像まで腹ごなしに歩いて帰ろうという話になった。ざくざくと雪を踏みしめて道を戻っていく。幾人かのメンバーは車に乗ったが、私は大丈夫だった。もしかして私は、寒い中を歩くのがとても好きなのかもしれない。

車に乗って帰り、少し休んですぐに夕食。あっという間にもう出張も最後だ。最後はイタリアンへ。

よく話をしてくれた女性二人組が来てなくて、さすがに疲れて休んでるのかなと思ったが、少し遅れてお店に入ってきて、水のペットボトルに白い液体を詰めて持ってきてくれた。

聞けば、私が馬乳酒を飲んでみたいなぁと言ったので、ウランバートルのモンゴル料理屋を駆けずり回って見つけてきてくれたのだという。この時期にはめちゃくちゃ珍しいのだと聞いていたぞ。きっとあちこち調べて回ったに違いない。あとはお土産にミルクティーも2種類くれた。インスタントのやつと、茶葉のやつ。

ああ、そんなことされたら、おれ泣いちゃうよ……。疲れてるのに……。(実際そのあと彼女らは疲れ果てて寝かけてた)ちょっとさすがに考えさせられるものがある。おれは彼ら彼女らに何をしてあげられているのだろうか。

涙はこらえてしっかりとパスタを食べる。

パスタは普通においしかった。23時くらいになって、集合写真を撮って解散。なにせ朝4時45分集合だからな。


モンゴルは1920年代から1990年まで、ソビエトの影響下にあった。国としての独立を維持するためにソビエトとの関係に注力し社会主義と計画経済を取り入れたが、確かに国としての独立は維持できたがその代わりに独裁制が長く、多くの血が流れ、自由は制限された。

モンゴル民主化から33年がたち、約一世代である。若者たちは海外に留学し、多くのことを勉強する。世界中のポップスやジャズを楽しみ、パーティーに興じる。隠れ家的なバーで同期のエンジニアとおしゃべりに興じる。

まだまだすべてはこれからなのだ。煮詰まって煮詰まって先が見えない日本とは違う。

彼ら彼女らは自国の伝統をとても大切にしていることが伝わってきた。正月のこと、親戚のこと、郷土料理のこと、楽しそうに語ってくれた。自国の文化に誇りがあるからこそ、堂々とおもてなしができる。何しろ弾圧されてきた70年間を脱し、ようやく自国の文化に誇りを持てるようになったのだ。

自国の文化を脱ぎ捨てることで次のステージに進み、「欧米化」が「進歩」と同一視されてきた日本とは違う。外国人の目を通して「日本すげー」をやってもらい、ようやく獲得できる自信なさげなアイデンティティとは太さが違うのだ。

今まで海外との仕事をあまりせず、日本だけを見てのんのんと生きてきた自分はなんて狭隘だったんだろう。世界中に留学し、3か国語を操るモンゴルの彼ら彼女らのほうが圧倒的にコスモポリタニズムだ。確かに彼らは日本企業の影響下であり、仕事上では私が彼らに伝えられることもあるだろう。しかし総体として彼らからは学ぶべきことが多い。

これから触れていくすべての国々に似たようなことを感じていてはノスタルジーであふれかえってしまうが、とりあえずこの時点では強くそう感じた。

そして自分の周りにいる留学経験者のみんなはやはり同じようなイニシエーションを踏んでいるのだろうか。