12月30日(木)
これが私のnoteの1000記事となる。
1000記事書いた人はかなり少ないと思うし、1000日の間、日記を書き続けた人はもっと少ないと思う。
1000記事書いたら普通もっと人脈が広がったり、見識がひらけたりを期待するでしょう。でもやってみたら意外とそんなでもなかったな。ただ毎日の仔細な記録が1000個残った、というだけだ。
父が日記を書こうかな、と言っていた。でもがん宣告を受けてから書き始めるとどうしても「がん日記」になってしまうのでそこに日常感はないことを悩んでいた。
できればがんと診断される前に戻って書ければと思うけれども。
ゆっくりと起きると妻がすでに朝食を作ってくれていた。と言っても野菜スープだけだが。それにチキンの残りを合わせて朝食とする。
今日も引き続き、掃除の日だ。部屋を片付け、窓を拭く。部屋の隅のゴムノキの葉に埃が被さっているので一枚一枚丁寧に拭いてやる。
全部の箇所を同時に掃除するのは無理なのであとは年明けにしよう。
おそらく建築当時に嵌められた古い窓にCRE556をさしてツルッツルにしてやろうとしたら、ツルッツルになったはいいが滑らかになった窓がどこかに突っかかって全然閉まらなくなったりした。金槌でゴンゴンやってようやく閉まるようになる。メンテしたら壊れるとか、酷いもんだ。家も人も歳をとると一筋縄ではいかなくなる。真理。
昼飯にベーコンエッグ丼を食べ、お友達の家に出発。今日はお友達の家で遊び、子供だけそこに泊まってくる予定になっている。
お友達家族は名古屋から帰ってきたばかりなのにこんな予定を詰め込んでしまって申し訳ない。スーパーで待ち合わせ、買い出しをしてゲストルームへ。タワマンではないが高級マンションである。
そういえばこのあいだ実家に帰った時に、母に私が小学生だった頃の話を聞いてみた。
「なにせガラもそんなにいいところじゃないしね、『なんなのこの子!?』みたいな子もたくさんいたし。かなり浮いてたみたいよ」
そうだったのか、うまく言語化できていなかったが、ガラが悪い街だったのか。
私の育った町は川崎の工業地帯から一歩内陸に入ったあたりで、小さな町工場や商店街がありガヤガヤしたところだった。タワマンどころかマンションすらほとんどなく、古い戸建か団地ばかり。長屋みたいなのもあったし、母に「長屋みたいなのに住んでる友達の家に行ってくる」と言ったらあまり良い顔をされなかったのを覚えている。
確かにガラは悪いのかもしれない、というかガラがいい要素が一つもないぞ。バイクで死んだ同級生もいたしな。そしてそれに気づくことなく育ってきた私も私で鈍感すぎないか。
30年経って、ガラが悪い街で育ったことを再認識した。
父の会社はちゃんとした会社なので、その社宅に住む人だけはそれなりの暮らしがあったんだろう。なるほど、なんというか。そのころの日記があったなら見たいものだ。
そこから世代を一つ下って、とにかくガラの良さを煮詰めたような高級マンションの一角で子供たちを遊ばせ、大人はビールを飲み、ピザを食べ、そして私は歩いて帰ってきた。しばらくして妻も自転車で帰ってきた。
久々、というかいつぶりだろう。下の子は親と寝ないのは生まれて初めてと言っていたから、もしかしたら8年ぶりくらいかな、の夫婦二人きりの夜を楽しむこともせず、寒すぎて各々風呂に入ってすぐに寝た。
私の子供たちが例えばニューヨークのどこかしら、ハイソの極みみたいなところで暮らして、今のごちゃごちゃした街を振り返って「そういえば深川ってところはガラが悪かったなあ」と思う日は来るのだろうか。