4階建ての2階部分

上の子:2013年生まれ 下の子:2015年生まれ

父の話 4

1月11日(火)

学校初めである。起き出して凍み餅を焼く。

凍み餅というのは福島の郷土料理で、餅をフリーズドライみたいにしたやつだ。もう何年も我が家のキッチンに佇んでいたが、いよいよ食べる時が来た。鏡開きの代わりである。

水で10時間以上戻して、フライパンで焼く。普通の餅のようには膨らまない。外はパリパリ、中はトロトロ。かなりよもぎのパンチが効いているので(よく見るとよもぎ以外にオヤマボクチという草も入っているらしい)、あんこをたくさん乗せて食べる。6個ふやかして、ちょっと多いかなと思って4個焼いたがそれでも多く、子供の分が結構余ってしまった。

子供達は学校にあわや遅刻という時間まで食べていたが、どうにかランドセルを背負って大量に荷物を抱えて、傘までさして家を出て行った。

私は家で仕事。雨が寒く、暖房の効きが悪い。昼飯に残り物の凍み餅、スープ、きんぴら、何かの炒め物、卵かけご飯、という残飯処理班をやって、家を出る。

実家を目指す。

父が早ければ明日から入院と聞いていたのでどうにか時間を調整して午後を開けたが、蓋を開けてみると入院は来週月曜からだった。焦ることはない。結果論でしかないが。

午後には止むと言われていた雨が全然止まず、仕方なく駅からタクシーで実家を目指す。

母と父がいた。検査の結果を聞く。膵臓がんステージ4、手術不可というのは覆らなかったらしい。覆ることがほぼないと思っていても、万が一覆ることも、、、と心のどこかで思っていた自分を発見した。

父は食欲がかなり落ちているようだったが概ね元気だった。一通り話を聞き、入院と抗がん剤治療(治療というのか?)について話して、すぐに暇になる。猫と遊んだりする。

暇で何をするでもない時間だが、私が父の息子でいられるのはこういう暇な時間くらいしかない。

帰りに父が駅まで車で送ってくれた。今度来るときは、写真を撮ってくれ、とのこと。

写真。これはその、つまりいわゆる遺影だろう。胸の浅いところがぎゅっとする。

人は普通に生きている限り、死ぬことを考えない。確率で言うと誤差つきの0%だ。それが老化や段々に死の確度が高まり、やがて「まもなく死ぬ」という誤差つきの100%という状態になり、誤差が徐々に縮まって死に至る。

途中を一段階省いて、いきなり「誤差つきの100%」になったのでお互いに心の準備ができていない。

そもそも人が死ぬのは自明なので最初から「誤差つきの100%」のはずだが、なぜ我々は0%という前提で生きるのだろうか。じゃないと何もできないからな。メメント・モリ

なんだか釈然としないまま駅や秋葉原で再びスマートフォンを触り、ワインバーやビアバーを覗いてみたが営業していず、まあいいや、と思って家に帰った。

不思議なもので家には何も変わりがない。子供たちも妻も元気だ。私はここを拠点にして生きているはずなので、なんら支障はないはずなんだけどな。

ご飯中だが子供たちを抱きしめ、夕食の牛丼を食べる。肉は硬かったが、家族で食べられることを喜ぶ。